びすたーらい、びすたーらい

”びすたーらい”とはネパール語で”ゆっくり”という言葉。そんな”ゆっくり”した国 ネパールの青年海外協力隊隊員の奮闘記

協力隊へのきっかけ その2

続きです。   前の日記では、今の仕事を通じて日本の社会に疑問を感じ「このままではいけない!」と感じ応募したと書かせてもらいました。 もう一つ私を青年海外協力隊への道に踏み出させたものがあります。 ちょうど4年前に起きた「東日本大震災福島第一原発事故」です。   現在、福島県の某所に住んでおりますが、被災時も福島に住んでいました。 仕事が農業資材を売ることだったので、販売に苦戦するというのは容易に想像出来ました。そこまではいいんです。 震災後、一番葛藤したのは「営業である故、売り続けなければならない」宿命との戦いでした。 福島では当時、復興関係のNPOや仕事が雨後の筍のようにたくさんでき、Iターンで多くの若者が福島に支援で入っていました。 そんな人々が凄く輝いて見えて、自分の仕事が常に営利である事に対してものすごい劣等感を抱いたことは忘れられません。 自分の仕事が本当に社会の役になったかわからなくなった時期です。 2012年の春頃ですが、この時まで結構行っていた復興関係のWSやイベントにも全く行かなくなり、人も信じれなくなり 引きこもりの生活になっていきました。 この頃から日本の社会に対して疑問や不満を持ち、海外に出ることに魅力を感じました。タイとかフィリピンとかボーナス使って何回も行きましたね(笑) そうして会社には普通に行きながらも、プライベートで引きこもり続けた2013年秋 協力隊を勧められます。 昔から知ってはいたものの魅力を今まで感じていませんでしたが、もう心は海外に向いていたので、ものすごい魅力を感じました。 でも2013年の秋募集での応募をするのはやめておきました。 「自分の中で1年間考えて、それでもやりたいと思ったら受けよう」と決め、1年を過ごした2014年秋 受験を決意 TOEICは最低ライン、健康診断は再検査、武器は農業資材販売のスキルと社会人経験だけで受かってしまいました。 本来2014秋募集では採用の範囲外だった4次隊での合格(退職時期と野菜栽培職種の研修の兼ね合いで3次隊でもきついと申し出たため) 本当にJICAさんには配慮を頂いたと思っております。 色々と複雑な思いがある中での協力隊 30歳での派遣 帰国後の再就職や婚期の遅れ まっとうな人のレールは外れることへの恐怖もあります。 それでも一生に一度の貴重な経験 怖いことは沢山ありますが、頑張れそうです